NEURODIVERSITY・UNITED
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Nick Walker教授のエッセイ

 

ニック・ウォーカーは、USAカリフォルニア州CIIS大学、及びSophia大学の講師であり、学際学者、心理学者、作家、編集者、そして合気道の先生でもあります。ニックはオーティスティックです。彼のオーティスティックに向けて書かれたエッセイ【主人の道具を捨てよう:自らを病理学パラダイムから解放するために】は、様々な国で訳されています。

 

ニックは私に、彼のウェブサイト内の全てを使用する許可をくださいました。ここでは上記のエッセイのウェブ・ヴァージョンをお届けします。

*オリジナルの英語版は下記URLよりアクセスいただけます。

http://neurocosmopolitanism.com/throw-away-the-masters-tools-liberating-ourselves-from-the-pathology-paradigm/

 

[Throw Away the Master's Tools:Liberating Ourselves from the Pathology Paradigm] - Nick Walker   August 16, 2013

 

主人の道具を捨てよう:自らを病理学パラダイムから解放するために

 

人間の脳の多様性に関して現代社会を支配しているのは、私が“病理学パラダイム”と呼ぶものです。オーティスティック及びその他のニューロマイノリティ達の今後の幸福と健康、自律と人権確保は、私達のパラダイムシフトを起こす能力に懸かっています。病理学パラダイムから、多様性パラダイムへのシフトです。こういったシフトは内面から、つまり私達一人一人の意識の内から起こらなければならないものであり、同時に私達の生息するカルチャーにも浸透させていかなければなりません。

 

上記の洒落た言い回しは一体どういう意味なのでしょうか?私の言うパラダイムとはいったい何か、そして一つのパラダイムからもう一つのパラダイムへと“シフト”するというのはどういう意味なのでしょうか?このエッセイはそれをシンプルな用語で解りやすく説明しようと試みたものです。

 

パラダイムとは何か、そしてパラダイムシフトとは?

 

アカデミックな用例において遭遇したことはなくても、あなたはきっと‘パラダイム’という言葉を聞いたことはあるでしょうーなぜなら企業のマーケティング担当者たちが新しい開発を世間に売り込むために煩いほど頻繁に使用するからです:“ワイヤレス・テクノロジーにおける新パラダイム!” “販売膨張における新パラダイム!”

 

過去にスペインのある偉大な外交家が言ったように、‘それは彼らが意味すると思う意味ではないと私は思います’。

 

パラダイムとは単なるアイディアやメソッドではありません。パラダイムとは、私達がある主題についてどう考え、どう話すかを形作る基本的な仮定や原則、基準あるいは考え方のことです。パラダイムは私達が情報をどう解釈するかを形作り、その主題に対してどのような種類の質問を投げかけるかを定めます。私達はいかなる時もパラダイムというレンズを通して現実を見つめているのです。

 

一番シンプルでよく知られていると思われるパラダイムシフトの例は、天文学の歴史にあります。地球中心説パラダイム(太陽と複数の惑星が地球を中心に回転しているとした臆説)から、地動説パラダイム(地球を含む複数の惑星が太陽を中心に回転しているとした臆説)へのシフトです。このシフトが起こり始めた当時、既に何世代もの天文学者たちによって広範囲にわたる惑星の観測が記録されていました。しかし、地動説へのシフトにより、それまでの計測データの意味合いがまるで変わってきたのです。すべての情報を真新しい視点から解釈し直さなくてはならなくなりました。それまでの質問の答えが変わったという程度ではなく、質問自体が違ってきたのです。「地球の周りを回転する水星の軌道は?」などという、それまでは重要であった質問自体があからさまなノンセンスとなり、反対に古いパラダイムにおいてはノンセンスであったために誰も投げかけようとしなかった質問などが突如、重要な意味を持ったのです。

 

これがパラダイムシフトです。私達の基本的な憶測のシフト;私達の条項の再定義を要し、用語の変換を要し、質問の再構成を要し、データの再解釈を要し、基本的なコンセプトやアプローチを完全に考え直させる革命的なシフトです。

 

病理学パラダイム(パソロジー・パラダイム)

 

大抵の場合、パラダイムは幾つかの基本的な原理に絞り込めます。しかし、それらの原理に基づく社会的暗示や因果関係は広範囲に及びます。病理学パラダイムのように広範囲において支配的な社会現象の原理は、大体において憶測に頼っています。つまり、あまりにも当たり前とされているために、ほとんどの人間が意識的にその原理を顧みたり、はっきりと認識することをしません(そして場合によっては、はっきりと認識させられることは恐ろしい発覚であったりします)。

 

病理学パラダイムは以下の二つの基本的な憶測によるものです。
 

1.人類には一種類の“正しい”、“普通の”、あるいは“健全な”脳及びマインドの形状や働き(あるいは全ての脳とマインドが属すべき非常に狭い”普通”の範囲)がある。

 

2.もしもあなたの脳神経とその働き(そして、その結果として貴方の思考回路や言動)が支配的な標準である“普通”と異なるのであれば、あなたには問題がある

 

この二つの憶測が病理学パラダイムの定義です。様々なグループや個人が違った形でこの憶測上に理解を構築しており、それぞれが程度の異なる合理性、不条理、恐怖あるいは同情を持っています。しかし、上記の二つの憶測に基づいている限り、彼らは病理学パラダイムの内で働いているに過ぎません(古代マヤの天文学者たちと13世紀イスラムの天文学者たちが宇宙に関してまるで異なるコンセプトを抱いていながらも、双方が地球中心説の内で動いていたのと同じように)。

 

オーティズム(オーティスティック)を“障害”と分類する精神医学会;オーティズムを“グローバルな健康危機”と呼ぶ“オーティズム支援団体”;新たな“病原”のセオリーばかりしか思い付かないオーティズム研究者達;オーティズムは何かの“中毒”であると信じている科学的文盲な翼団体;誰であろうと“病状”、“治療”あるいは“流行病”などの医学用語を使ってオーティズムを表現する人;“普通”の子供のふりをするように躾けるための“治療介入”を強要することが自分のオーティスティックの子供のためであると考える母親;成功の秘訣は今以上に努力してニューロティピカルの社会的要求に従う努力をすることであるとアドヴァイスするオーティスティックの有名人…それぞれの意図が何であろうと、それぞれの意見が色々な部分で違っていたとしても、これらのグループおよび個人の全員が、あくまで病理学パラダイムの中で動いているのです。

 

多様性パラダイム(ニューロダイヴァーシティ・パラダイム)

 

これが私の定義する多様性パラダイムの基本的な原理です。

 

1.ニューロダイヴァーシティ(脳とマインドの多様性)は自然及び健全であり、人類の多様性の貴重な一形態である。

 

2.一つの”普通”あるいは“正しい”人種、性別、文化などが存在しないように、人類において“普通”あるいは“正しい”様式の脳やマインドなどは存在しない。

 

3.ニューロダイヴァーシティにおけるグループ・ダイナミクスは人類の他の多様性の形態におけるグループ・ダイナミクスと同様である(人種、文化、差別、性的指向などの多様性)。これらのダイナミクスは社会的ダイナミクス(社会的不平等、特権、抑圧のダイナミクス)を含むばかりではなく、多様性が受け入れられた時にそれがグループまたは社会の中で創造性の源として作用するダイナミクスも含む。

 

主人の道具で主人の家を解体することは決してできない

 

1979年のフェミニスト国際カンファレンスにて、詩人オウドレ・ロードが「主人の道具で、主人の家を解体することは決してできない」という題名のスピーチを発表しました。労働者階級の移民家庭に生まれた黒人レズビアンであるロードはそのスピーチの中で、ほとんどが白人裕福層であった観客たちを、社会階層;除斥;差別;階級主義;ホモフォビア;特権の無自覚;多様性を受け入れられない等の基本的な縦社会制度に基づくダイナミクスに根付いた状態に留まり、それらを広め続けていると酷評しました。ロードはセクシズムを、あらゆる形の“違い”に対して階層による支配を施す、幅広く深く根付いたパラダイムの対象の一つとして理解しており、ロードにはフェミニストたちがそのパラダイムの内で動いている限りは本質的な解放を広めることは不可能であることが見えていました。

 

「差別社会の道具を使って差別社会が生み出したものを考察するということは、どういうことでしょうか?」ロードは言いました。「それは、非常に狭い範囲内での変化しか可能ではなく、またそれしか許されないということです。【…】なぜなら、主人の道具を使っていては、決して主人の家を解体できないからです。彼らは自分たちのゲームにおいて一時的に我々が優位になることは許しても、我々が本質的な変化をもたらすことは決して許さないからです」

 

主人の道具を使っていては、主人の家を解体することはできない。あるシステムの中で、そのシステムのルールに基づいて動くことは、あなたの意図とは無関係にそのシステムを強化することに繋がります。主人の道具はけして主人の建てた家を解体しないというだけではなく、あなたが何かをするために主人の道具を使おうとすれば、あなたはいつの間にか主人の家を更に増築してしまうことになるのです。

 

ロードの警告は、現在のオーティスティック・コミュニティと、私達の権利を得るための戦いにも同様に当てはまります。私達に対する「あなたには問題がある」という憶測は私達を無力化させるものであり、その憶測は完全に病理学パラダイム固有のものです。よって、病理学パラダイムの“道具”(明示的にでも暗示的にでも、私達を病理学パラダイムの憶測に引き込んでしまう全ての戦略、目標、話し方、考え方など)は、長期的には、けして私達に権利を与えません。オーティスティックのための本質的な、長期で広範囲に亘る権利は、病理学パラダイムから多様性パラダイムへのシフトを起こすことでしか得ることができないのです。私達は主人の道具を捨てなければなりません。

 

病理学の用語 VS. 多様性の用語

 

病理学パラダイムが長らく支配してきたために、沢山の人(オーティスティックの人権尊重を唱える人達でさえも)が、未だに習慣的に病理学パラダイムの憶測に基づいた用語を使用していることがあります。病理学パラダイムから多様性パラダイムへのシフトは、根本的な用語の変化を要します。なぜなら、病気について語ることに適した用語は、多様性について語ることに適した用語とはかなり異なるからです。例として、“人が先にくる表現”の問題について話しましょう。

 

誰かが病気を抱えていた場合、私達は「彼女は癌にかかっている」、あるいは「彼女はアレルギーを持つ人だ」あるいは「彼女は口内炎に侵されている」などと表現するでしょう。しかし、誰かがマイノリティに属していた場合、私達はその人がマイノリティであることを疾患であるかのようには話しません。たとえば、「彼女は黒人」あるいは「彼女はレズビアン」と表現します。黒人に対して「二グロイズムにかかっている」あるいは「二グロイズムを持っている人」、あるいは誰かが「ホモセクシュアリティに侵されている」などと表現することは恐ろしく不適切であり、自分が無知あるいは差別的であると思われてしまうことを私達は理解しています。

 

よって、「オーティズムを持っている人」、「彼女はオーティズムにかかっている」あるいは「オーティズムに侵された家族」などという表現をした場合、私達は病理学パラダイムの用語を使用していることになります。それは暗示的に、オーティズムは本質的に”問題”であり、オーティスティックに対して「あなたには問題がある」という病理学パラダイムの憶測を認め、支持することに他なりません。反対に多様性の用語では、私達は民族や性的な多様性について話すようにニューロダイヴァーシティについて語り、オーティスティックについても他の社会的マイノリティに関して話すのと同じように話します:「私はオーティスティックです」「私はオーティスティックの人」「私の家族にはオーティスティックがいます」

 

用語の差など大して重要ではない様に思えるかもしれませんが、言葉遣いは私達の考え、視点、文化、そして現実を形作る重要な鍵です。オーティスティックについて語る際に使用される用語は、長期的に見れば社会が私達をどう扱うかに強大な影響を与えるものであり、また、私達が自分自身に対して内面化するメッセージにも影響します。病理学パラダイムを支持する用語で自分自身について語ることは主人の道具を使用することであり、ロードの言葉を借りれば、それによって自分自身を主人の家の更に奥へと導き、閉じ込めることになるのです。

 

私は“普通の人間”の存在を信じない

 

“普通の脳”あるいは “普通の人間”などというコンセプトは、“至上人種”(一番優れた人種)というコンセプト同様に科学的根拠に欠けるものであり、何も良い結果を生みません。あらゆる主人の道具(ダイナミクス、用語、そして社会的不平等を維持するコンセプト的枠組み等)の中で、もっとも強大で陰湿なものが“普通の人間”というコンセプトです。人類の多様性(民族的、文化的、性的、脳科学的、その他)において、どれか特定のグループを“普通”として、あるいはデフォルト的なグループとして扱うことは必然的にそのグループに特権を与えることになり、そのグループに属さない人達を周縁化する(除外する、差別する、軽んじる)ことになります。

 

“普通の人間”などというものが存在するという不審な憶測は、病理学パラダイムの中核にあるものです。反対に多様性パラダイムでは、人類の多様性においては“普通”を有効なコンセプトとして認めていません。

 

人種や民族あるいは文化的な多様性において、“普通”などというコンセプトは不条理で無意味なものであることを、十分な教養のある現代人であれば既に理解しています。世界で一番多い民族は漢民族ですが、マジョリティであるからといって彼らが人類における“通常”あるいは“デフォルト”の民族であると主張することは馬鹿げています。ランダムに一人選んだ場合に、統計的にはそれがアイルランド民族よりも漢民族である確率のほうがはるかに高いというだけで、アイルランド民族よりも漢民族の方が“普通”であることにはなりません(すでに意味が不明です)。

 

もっとも陰湿な種類の社会的不平等、もっとも対抗するのが難しい特権が生まれるのは、支配的なグループがあまりにも根深く“普通”あるいは“デフォルト”のグループとして成立しているがために、そのグループには特定の名前あるいはラベルが無い状態の時です。そういったグループのメンバーは単に“普通の人”あるいは“健全な人”と思われており、そこにはそのグループから外れた人間を同様に自然で正当な人類の多様性の表れとしてではなく、普通で自然な状態から外れているものと見なす暗示が含まれています。

 

たとえば、「ゲイの人達は、ヘテロセクシュアルと同等の権利を要求しています」というステートメントの意味合いと、「ゲイの人達は、普通の人達と同等の権利を要求しています」というステートメントの意味合いの差を比較してみてください。単に「ヘテロセクシュアル」という言葉を「普通」と入れ替えただけで、二番目のステートメントは暗示的にヘテロセクシュアルの特権を認めて支持するものとなっており、同時にゲイを“異常”として下位のステータスへと追いやっています。

 

それでは、「ヘテロセクシュアル」や「ストレート」といった言葉が一切存在しなかった場合を想像してみてください。そうなるとゲイの人権運動家たちは、「私達は普通の人達と同じ権利が欲しい」などといった、“異常”とみなされ社会の隅へ追いやられているステータスを支持するような発言をしなければならなくなり、結果的に彼らの努力は裏目に出てしまいます。彼らは主人の道具を使い続けることになります。もしも「ヘテロセクシュアル」や「ストレート」といった言葉が存在しなければ、ゲイの人権運動家たちはそういった言葉を開発する必要が出てきます。

 

ニューロダイヴァーシティ・ムーヴメントの初期段階において「ニューロティピカル」という言葉を定着させることが不可欠であったのは、そうした理由からです。「ニューロティピカル」はオーティスティックにとって、ゲイにとっての「ストレート」と同様です。「ニューロティピカル」という言葉の存在によって、ニューロティピカルの特権についてなどの会話も可能となったのです。「ニューロティピカル」という言葉のお蔭で、私達は支配的なグループについて話す際に彼らを“普通”と称することで暗に彼らの特権階級を支持(同時に自分達を卑下)しなくて済むのです。一種類の人間にその他以上の特権を与えるために使われる「普通」という言葉は、主人の道具です。しかし、「ニューロティピカル」は私達の道具です。主人の道具の代わりに使える道具です。主人の家を解体しようとする私達を手伝ってくれるのです

 

ニューロダイヴァーシティの用語

 

「ニューロティピカル」という言葉は、徐々に確立されつつあるニューロダイヴァーシティの新用語には不可欠な言葉です。私達が、私達を無力化させる病理学パラダイムの用語から自身を解放し、多様性パラダイムを自身の思考と公共の談話の領域にも確実に浸透させていくためには、こういった新用語は更に増え、そして定着していく必要があります。

 

ニューロダイヴァーシティの新用語の中でもっとも重要なのは、もちろん「ニューロダイヴァーシティ」という言葉です。脳形式のヴァリエーションは人類の自然な多様性の一形態であり、他の多様性における社会的ダイナミクスと同じ対象であることへの理解ーそれら全てが一つの言葉に詰め込まれています。

 

もう一つの便利な言葉は「ニューロマイノリティ」です。ニューロティピカルはマジョリティ;そしてオーティスティック、ディスレクシア、それからバイポーラーの人達もニューロマイノリティの一例です。この言葉はもっと普及される必要性があります。病理学的ではない、良い言葉を使ってニューロティピカル以外の色々なグループを参照できると、談話の場において様々なトピックについて楽に語ることができます。

 

ニューロダイヴァーシティ、ニューロティピカル、そしてニューロマイノリティといった術語は、私達がニューロマイノリティの個人達を暗に病的なものとみなすことなくニューロダイヴァーシティについて話したり、考えたりすることを可能にしてくれます。私達がオーティスティックのコミュニティを耕し、他のニューロマイノリティのグループとも交流し、私達に関わる様々な事柄についての書物や討論を生成していくうちに、更なる新しい用語が生まれるでしょう。「スティム」や「ラウド・ハンズ」など、オーティスティックのアスペクトについて説明をする上で重要な言葉を私達は既に生成してきました。そして私自身のアカデミック・ワークにおける異文化適正能力(様々な異なる文化の人達と上手く対話しコミュニケーションをとる能力)に関わる研究の影響で、私は「クロス・ニューロタイプ」そして「ニューロコスモポリタニズム」といった術語やコンセプトを使い始め、それらが広範囲に普及することを期待しています。

 

私はニューロダイヴァーシティ・パラダイム、そしてパソロジー・パラダイムといった熟語も、使われることにより広範囲に普及することを期待しています。一つ明確にしておきますが、「ニューロダイヴァーシティ」(人類の脳の多様性という現象)と「ニューロダイヴァーシティ・パラダイム」(脳形式のヴァリエーションは人類の自然な多様性の一形態であり、他の多様性における社会的ダイナミクスと同じ対象であることへの理解)の違いを区別することはとても便利です。そしてパソロジー・パラダイム(病理学パラダイム)に名前があることによって、私達はより簡単にそのパラダイムについて討論し、認識し、挑戦し、解体し、そしていずれ取り除くことができます。

 

言葉は道具です。そして主人の道具では主人の家を解体できないことを認識している私達は、自分達専用の道具を創りだします。そして、その道具は主人の家を取り壊すだけでなく、私達が権利を持ってより良い生き方をするための場となる、新しい家を建てる手伝いもしてくれるのです。

 

頭の中の前哨基地

 

私の出会うオーティスティックのあまりにも多くが自分自身について病理学パラダイムの用語で話し、考えています。そして、それがどれほど彼らを無力化させ、自分に対して嫌悪感を抱かせているかを目の当たりにして、私はいつも心が痛みます。彼らはそれまでの人生を病理学パラダイムの支持者たちの広める有毒なメッセージを聞きながら過ごしてきたために、それらのメッセージを受け入れて内面化してしまい、絶え間なく自分の頭の中で繰り返しているのです。

 

ニューロマイノリティ達の奮闘がその他の種類のマイノリティ・グループと同様のダイナミクスであることを認識すると、この自分自身を病的とみなす種類の話し方は他の種類のマイノリティ達を悩ませてきたのと同じ問題の顕れであることが解りますー「内面化された抑圧」と呼ばれる現象です。

 

オウドレ・ロードの現代版、フェミニストのサリー・ケンプトンは、内面化された抑圧に関してこう言いました:「あなたの頭の中に基地を持っている敵と戦うのは難しいことです」

 

私達が自分自身を主人の家から解放する作業は、自分自身の頭の中に建てられたその家のパーツを解体するところから始まります。そして、そのためのプロセスは、私達が解体しようとしている家をうっかり増築してしまうのを止めるために、主人の道具を捨てることから始めなければなりません。

 

主人の道具を捨てる

 

病理学パラダイムの基盤ー“普通の人達”という架空のコンセプトーが主人の道具箱の基礎的要素であることを理解すれば、それらを見分けて自分の中から捨てる作業がずっと楽になります。自分の言葉、コンセプト、思考、思い込み、そして不安などを注意深く吟味して、“普通”というコンセプト、そして一つの“正しい”脳やマインドの働き方が存在するというコンセプトを捨てた時に、それらがまだ意味をなしているかどうかを見極めれば良いだけなのです。

 

“普通”というコンセプトを捨てれば、ニューロティピカル達は単にマジョリティの一員に過ぎません ー 私達よりも健康なわけでも、より“正しい”わけでもなく、単により一般的なだけです。そしてオーティスティックはマイノリティ・グループの一員であり、他の民族的マイノリティと同様、本質的に障害ではありません。“普通”などというものは一部の人間が作りだした架空の産物であることに気がつき、それが主人の道具であることに気がついて窓の外へと放り出してしまえば、オーティスティックが“障害”であるなどというアイディアもそれと一緒に放り出されてしまいます。全てのマインドが適合しなければならない一定の“普通”の状態があるというアイディアに巻き込まれることを私達が拒否したならば、いったいどんな状態と比較して”障害”があるとするのでしょうか?

 

そして、引き合いに出せる“普通”という架空の産物がなければ、“機能”に関するラベル ー “高機能オーティズム”や、“低機能オーティズム”なども馬鹿げた架空の産物に過ぎないことが明らかになります。いったい何と比べて“高機能”であったり、“低機能”であったりするというのでしょう?人間一人一人の個人にとって相応しい“機能”がどういったものであるべきかを、誰に決める権利があるでしょうか?

 

病理学パラダイムにおいてはニューロティピカルのマインドが“普通”として即位しており、その他の全てのマインドはそのニューロティピカルの理想である“普通”と比較されます。“低機能”の本当の意味とは、「ニューロティピカルのふりができない、ニューロティピカルが“人間はこういうことが出来るべきだ”と思うことができない、そしてニューロティピカルによってニューロティピカルのために創られた社会の中では上手く生きられない」というものです。“高機能”とは、「ニューロティピカルのふりがある程度できる」という意味です。自分を“高機能”または“低機能”と表現することは、主人の道具を使って自分を主人の家の中に閉じ込めることに他なりませんーあなた自身を測るための理想的なスタンダードがニューロティピカルであるとされ、ニューロティピカルが常にトップに君臨し、彼らの状態に近づくことが“高まる”ことであるとされる家の中です。

 

ニューロティピカルは“普通”であり、オーティスティックは“障害”であるという憶測からすると、ニューロティピカルとオーティスティック間のコネクションの問題は必然的にオーティスティックの何らかの“欠陥”あるいは“欠如”のせいにされます。オーティスティックがニューロティピカルを理解できなかった場合、それはオーティスティックに感情やコミュニケーション能力が欠如しているから;ニューロティピカルがオーティスティックを理解できなかった場合、それはオーティスティックに感情やコミュニケーション能力が欠如しているから、ということにされます。この二つのグループ間におけるコネクションの不和や失敗、そしてオーティスティックがニューロティピカル社会の中で遭遇する様々な困難は、すべてオーティスティックのせいにされます。しかし、私達が“普通”という幻想から目覚めれば、このダブルスタンダードの正体が見えます。それは、支配的なマジョリティが頻繁にあらゆる種類のマイノリティに対して振るう特権と力の表明です。

 

病理学パラダイムを超えた後の人生

 

先にも書いたように、パラダイムシフトは私達が全てのデータを新しいパラダイムのレンズを通して再解釈することを要します。あなたが病理学パラダイムの基礎を前提とすることを拒否し、多様性パラダイムを前提として受け入れたならば、結局あなたは障害を持っていなかったことになります。そして、もしかするとあなたは機能すべき通りに機能しており、ただ単にあなたのように機能する人間に効果的に適応して受容できるほど、十分には教化されていない社会の中で生きているだけであるということになるでしょう。そして、もしかするとあなたが人生で抱えてきたトラブルは、あなたに生まれつき問題があったことによる結果ではなかったということになるかも知れません。そしてあなたの真のポテンシャルは未知であり、それを探究するのはあなたです。そして、もしかすると、あなたは実際にはとても美しい存在かも知れません。

 

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© Miyuki Kuwasawa - September 6, 2017